西国五番札所 聖武天皇勅願寺

紫雲山 葛井寺

開基

葛井寺は7世紀前半百済からの渡来人葛井氏の氏寺として創建されたと伝わります。

葛井氏の前身である白猪氏は朝廷から葛井連(ふじいのむらじ)の姓を賜ります。

日本で初めて体系的に刑法や行政法と民法を揃えた法典「大宝律令」(701年)の作成にも葛井一族は大きく関わっており、葛井氏は新しい文化を多くもたらします。その実績が認められ広大な土地を賜り、その地に寺を建立し葛井寺の基が始まったとされます。

葛井寺と藤井寺

中興の祖 藤井安基

永長元年(1096)に藤井安基という人物が、葛井寺の荒廃している様子を嘆き、伽藍の大修理に尽力します。その姓をとって「藤井寺」という別名がつきました。地名の「藤井寺市」もこの藤井さんが元だと言われています。
藤井安基は元々は誰も手が付けられない乱暴者でしたが、急死した後、閻魔大王に地獄に落とされるところを藤井寺の観音様に救われ蘇生します。その後堂宇を大々的に再興し葛井寺の為に命をかけたと言われています。
奈良時代には「葛」と「藤」は混用されていたとされますが、葛井寺の建立には2人の「ふじいさん」が大きく関わり今の姿になります。

井真成-いのまなり-

西暦717年、19歳で遣唐使として阿倍仲麻呂らと共に唐に渡り、36歳の若さで現地で亡くなった日本人留学生・井真成(いのまなり)。「井」は唐における姓で、元の姓は「葛井」と「井上」の2つの説が有力とされています。いずれも渡来系の氏族で藤井寺付近を本拠地とし、遣唐使などを多く輩出したと言われています。

墓誌はその人の略歴や功績などを石に刻んでお墓に埋めるもので、この時代の日本人のものとしては初めて見つかったものです。また、墓誌には「国号日本」と刻まれていますが、現存する「日本」の文字としては最も古いと言われており、貴重な発見となりました。